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中川 敬


Interview by riddimonline

 「ソウル・フラワー・ユニオン」4年振りのフル・アルバム「UNDERGROUND RAILROAD」を引っさげ、実は「ニューエスト・モデル」時代まで含め初の来福となった中川敬氏。リー・ペリー「Upsetting Rhythm」、榎本健一「これが自由というものか」のカバー含む、「311後の憤怒と喚起、邂逅と別離の詰まった」新作については読者の耳と心に委ね、「今」と「音楽の力」について聞いた。

福島駅前では稲荷神社の例大祭でお囃子の音色響く10月13日(月)祝日、阿武隈川を渡った閑静な住宅街にあるカフェギャラリー「風と木」で、リクオ×中川敬「うたのありか2014」があった。木造家屋に心地よく響く、3時間にも及ぶアコースティック・ライブを堪能したのは約40名という贅沢。
 牽引するバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」4年振りのフル・アルバム「UNDERGROUND RAILROAD」を引っさげ、実は「ニューエスト・モデル」時代まで含め初の来福となった中川敬氏。リー・ペリー「Upsetting Rhythm」、榎本健一「これが自由というものか」のカバー含む、「311後の憤怒と喚起、邂逅と別離の詰まった」新作については読者の耳と心に委ね、「今」と「音楽の力」について聞いた。

●昨日は南相馬市でのライブだったとのこと。

中川(以下、N):本当にみんなにウェルカムしてもらって。南相馬のライブは2011年に1回やったっきりやったから、2回目。ライブ以外では、知り合いがいるから、仙台の帰りに寄ったりとかはしてたんやけど。

●勝手な印象ですが311後、福島市にはすぐ来てくださるような気がしていました。

N:なかなか機会がなかった。毎年、(遠藤)ミチロウさんからPROJECT FUKUSHIMA!で呼んでもらってたりしてるんやけど、いつもスケジュールがぶつかって。あとは、アコースティックでやるにしても今まで郡山や白石、いわき、南相馬でやったりしてたから、距離が結構近いでしょ? 避けてたわけでもなんでもないよ(笑)。

●何か特別な想いはありますか?

N:勿論。ニューエスト・モデルの頃から反原発運動に関わってて、チェルノブイリ事故から2年後の1988年4月、広瀬隆さんを大阪に呼んで講演会とライブを一緒にやったりとか。それが90年代に入って、マスの世界から反原発的な気運がなくなっていって、忘れてたわけじゃないけど、気持ちが離れてた。悔やまれるね。で、やっぱり阪神淡路大震災がデカいかな。音楽活動と被災地のことで手一杯やったからね。その後、1995年にはもんじゅの事故、1999年には東海村の事故があったり、加えて六ヶ所村再処理工場のことを坂本龍一さんあたりが言い始める中で、00年代に入ってから「やっぱり原発の危険性は言っていかなあかん」とは思ってて。でもまあ、常に社会にはその時代その時代のイシューがあってね。

●パレスチナや中東はずっと大変な印象です。

N:ね。アフガンやイラク戦争もあった。で、2007年頃に祝島のことを知って。上関原発の反対運動がもう25年以上続いている。じいさん、ばあさんがずっとあの小さな島で頑張っていると。その辺りからムクムクと原発の危険性を、もう一度自分も含め、「表現者はちゃんと訴えていかなあかん」と思い始めた矢先、今回の事故が起こった。だから、結構反省してるところがあってね。だってオレみたいに色のついてるミュージシャンは、そのへんのミュージシャンよりも言いやすいわけであって(笑)。

●ご自分に「色がついてる」という認識ですか?

N:かなりそんな認識です(笑)。もちろん俺自身は、まったくいたって普通のことを言い続けてるつもりやけどね。

●C.R.A.C.(旧「レイシストをしばき隊」)とのコラボで、ヘイト・スピーチに抗うCDも出されています。

N:反原発運動と反レイシズム運動に関わる中で、C.R.A.C.の野間(易通)くんがダブ・ミックスを作ってくれることになったんやけど、彼が主導して、反レイシズム運動に関わるラッパー達が参加してくれることになったんよね。素晴らしい4曲入りディスクになったので、是非みんな手に入れて欲しい。

●問題意識を共有できるミュージシャンはたくさんいらっしゃいますか?

N:こういう会話、例えば政治的な話とか、レイシズムの話であったりとかをライブの打ち上げとかでできるミュージシャンって、あんまりいないよね。特に売れてると、なかなかね。でも本来、音楽や表現の世界がそれではダメなんやけどね。

●キャリアを積み上げた先で、「土地に根差した、土着の音楽とは?」といった方向を歩んだソウル・フラワー・ユニオンの姿勢も、他にあまりないものかもしれません。

N:オレにとっては若い頃から当り前の考え方やった。例えば「パンクが好きや」って言ったって、例えばクラッシュは気負いなく昔の革命歌をパンク・アレンジでやる。例えば60年代ならほとんどがアフリカン・アメリカンの音楽、70年代ならジャマイカン・ミュージックやったりとか、自分が好きな音楽のルーツを辿るというのは当り前の話やったからね。だから、「日本はなんでそういうことが起こらへんのやろな」というのが、20代前半の頃の自分の命題でもあった。そういう中で大きなヒントを与えてくれたのは、オレの場合は沖縄民謡。80年代後半やったね。沖縄のミクスチャー音楽はすでにレゲエやら、ロックやらあらゆるものとミックスされてたから、一番最初にヒントを与えてくれたのがあの辺やった。それで「オレらも新しい、かっこええもんつくりたいな」っていう単純な発想やね。最近ようやく若い連中が民謡をロックやヒップホップとミクスチャーさせたりし始めてるけど、まあでも日本のロックの世界はちょっと出遅れてるよね。植民地的やね、やっぱ。

●言うべきことを当り前に言っていく姿勢もおありです。

N:口ベタです(笑)。まあオレは、しがらみもないし、全然何ものにも気を使わず、何でも言える立場にある(笑)。で、原発に話を戻すと、やっぱりどこかで、チェルノブイリなら旧ソ連とか、「そういう場所やから事故が起きた」みたいなイメージが、オレの中にもあったんじゃないかな?って。そういう反省みたいなのが今回あった。それはオレの世代、あるいはオレより上の世代の人たちに結構あると思うんよね。小出(裕章)さんもそういうことを言ってる。あの人は専門の人やけど、今回の事故が起きて、「ちゃんと表明していこう」、「一人の人間として行動していこう」と。そういう気持ちになったよね。

●ご自分の中で、どの頃かに「振り切った」感覚はあるんでしょうか?

N:1985年、19の時にニューエスト・モデルを結成して、簡単に言うと、オレの考え方は、その頃からこういう感じやった。だから、どこかでいきなり「政治化した」とか、そんなん全然自分の中で、ない(笑)。ソウル・フラワー・ユニオンで活動していく中で、色んな出会いがあって、例えばアイヌや在日コリアン、ウチナーンチュの友達ができる。海外のミュージシャンと色々会話する。障害者運動の友達ができる。雑多な多くの人たちとの出逢い。そういう中で「自分の考え」みたいなものが、だんだんつくられていったということやね。別にマルクス・レーニン主義者でもないし(笑)、何かのイデオロギーや宗教を信奉してるわけでもない。

●厳密なご出身はどこですか?

N:西宮。我が聖地、甲子園球場のそばやね、最近は巡礼してないけど(笑)。

●これは他のインタビューにあった言葉ですが、「自分を高揚させるところに身を置き続けている」と。

N:「高揚させるから各地に行く」というのはちょっと語弊があって。ミュージシャンは基本的にはライブ、CD制作のルーティンがあって、加えて他の職業よりは他者にちやほやされる職業なわけですよ。そうなると、「全国ツアー」や「世界に行ってる」とか言っても、結構狭い箱庭の世界にいたりする。だから、自分はそうなりたくないということ。“高揚”というのは「色んな人に出会って、学ばせてもらって、好奇心に忠実に生きていきたい」っていうことやねんけどね。

●雑多な人々に会い続けていきたい。

N:自分と似た考えの人間に囲まれてずっと生きていくっていうのは、あんまり面白い人生じゃない。

●とはいえ、守られた世界での暮らしを求める価値観も強い社会です。

N:オレは子供の頃、親が新聞記者で、2年おきくらいに転勤、転勤やったんよね。だから子どもの頃から引越し、転校の連続で、そこでまず自分の体質がつくられちゃった気はする。一ヶ所にいて、そこのしがらみやしきたりに沿って言葉を選びながら生きる、みたいなことができないんですよ。

●そう「しない」のではでなく。

N:できない。言わんでいいことを言ってしまう(笑)。ただやっぱり何と言っても95年の阪神淡路大震災が大きいな。その頃はニューエスト・モデルを8年やって、ソウル・フラワー・ユニオンでメンバーチェンジもあって2、3年目ぐらい。「ロッキング・オン・ジャパン」の表紙をやったり、メジャーでバリバリやってる頃。それなりにちやほやされるし、気分悪くはないねんけれども、自分の中で「こんなことでええのかな?」って思ってる矢先でもあった。そこで震災が起きて、メンバーが「避難所に歌いに行かへんか?」って言い出して。当時はちょうどメンバーと日本列島周縁の民謡にはまり始めた頃やったんよね。それは、「アイリッシュ・トラッドにはまる」とか、「ジャマイカン・ミュージックにはまる」とかと同じノリで。

●ちょうど転換期に重なった。

N:まず三線を触り始めて。でも自分はヤマトンチュやし、「やっぱ、日本の民謡を歌いたいな」なんてことを言いながら、遊びで民謡を歌ったりし始めた頃に震災が起きて、実際歌いに行き始めて。それまでは業界の中でファンにちやほやされて、「全国ツアー」とか言ったって単に各地のライブハウスをまわってるだけで、その町その町の雑多な人たちと地べたで出会ってるわけではなかった。そういう中で、阪神淡路大震災で避難所、仮設住宅、復興住宅と、実は95、6年だけで出前ライブを200発やってて。その頃オレは30前後で、一番ギンギンの頃やね。あとは関西人同士、演奏終わった後は呑むわけですよ。相手がヤクザだろうが、その辺のおっちゃん、おばちゃんだろうが、とにかく一緒に呑んで、話して、色んなものを学んでいくわけやね。で、実は音楽もそこで学んでるんよね。「音楽って何やろ?」、「『人前で音を出す』ってどういうことや?」みたいなことを学ぶ毎日。演る音楽は、明治大正年間の壮士演歌や民謡、あとは戦後の曲でも三線でやりやすい歌謡曲。オリジナルはやらずに、そういう曲ばっかりをチンドン太鼓のグルーヴでやる。でも、古い音楽をやってんねんけど、ちゃんと今の音楽になるんよね。現場の音楽。

●雑誌の表紙を飾ったりチャートに入る音楽と、土着の、生活に根差した音楽の違い、または共通項でもいいんですが、どこでしょう?

N:人前で歌を歌うということにおいては、一緒。自分のオリジナルを、例えば、新宿のライブハウスで演る。壮士演歌や「お富さん」みたいな曲を、神戸の避難所で演る。全然違うねんけど「音楽を演る」、「歌を歌う」ということに関しては、ホンマ一緒やなって。あともう一つ、「自分が何者か」っていうことを知ってる人だけの前で演る。それは、「中川はこんな考えで、こんな曲を書いてきた人や」ということがわかる人たちの前でやる行為。

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