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中川 敬

●つまり「ファンの前で」という。

N:そこの違いは大きかったね。あと一番感じたのは、例えば朝鮮民謡の「アリラン」であったりとか、日本民謡の「竹田の子守唄」「貝殻節」みたいな曲や、沖縄民謡の「安里屋ユンタ」の強さ。基本的には当時、あまりマニアックに偏らないように選曲をしてたんよね。できる限りみんなが知ってる、おじいちゃん、おばあちゃんが知ってる曲がええなっていうことは最初からコンセプトであった。そうすると、「なぜそれらの曲が歌い継がれてきたのか」ということが、自分で歌うとよくわかるんよね。

●なぜですか?

N:凡庸な言い方で言うと、「メチャクチャええ曲やから」(笑)。どういうことかというと、いわゆるレコード産業、ラジオ、テレビ産業が無理矢理何度も洗脳かのように特定の曲を流し続けて無理矢理流行らすというのと、まったく逆の構造がそれらの音楽の中にはある。当時のオレの言い方では、「流行らせ唄」と「流行り唄」という言い方をしてたんやけどね。

●自然と人々に歌い継がれていく。

N:無数に「民謡」と言われるものが世界中にあって、その中でも「強靭な唄」が口承で広まっていって、結局「みんなが知ってる曲」というのはそういう曲やねんね。そういうことに、ぶち当たった。

●その「強靭さ」をもう少し説明できますか?

N:おそらく「いまいちな曲」は自然淘汰されて、「いい曲」は、より替歌化されたり、旋律が洗練されて生き残っていく、ということやろうね。

●福島市の農協に、ギターに加え三味線、三線を操るミュージシャンの方がいます。そして、その方が仲間と311後結成したバンドが、福島で「満月の夕」を歌い継いでいます。

N:へー、嬉しいな!

●「満月の夕」にも、民謡に通ずる強靭さがないでしょうか。

N:あの曲は、書いた日まで覚えててね。1995年の2月15日。何で覚えてるかと言うと、2月10日に神戸の避難所での活動が始まって、そこから2日おきに演ってる。10日、12日、14日と、それぞれ神戸の違う場所で演って、3発やった次の日に書いたっていうことをはっきりと覚えてるから、15日。それがどういうことかと言ったら、オレは3月生まれやからその時28。それまでは「ロックや」、「ファンクや」とか言ってたのが、いきなり三線持って、避難所のじいちゃん、ばあちゃんの前で民謡とかばっかり歌って、相当高揚してたと思うんよね。そういうまっただ中で書いた、当時は単に一つの新曲やった。神戸に行き始めて、今のこの、胸いっぱいになって動き回ってることを、日記的に書き留めておこう、というノリで「満月の夕」を書いて。当時の文献とかをあたると、相当「単なる新曲」扱いしてるんよね(笑)、オレも、オレのまわりも。

●特別な曲を書いた意識はなかった。

N:ただ一つあるのは、ずっとあの曲を歌い続けてきて、実は98年ぐらいの段階で「この曲、ええ曲やな」と思い始めてる。それはなんでかと言うと、全然飽きないわけ。つくってから、もうあと3ヶ月で実は20年になるんやけど、未だにまったく飽きない。そしてこの20年間、ソウル・フラワー・ユニオン、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット、中川敬ソロでも、「満月の夕」を外したライブをやったことは、実は1回もない。毎回演るたびにオレの頭の中の風景が違うし、歌うたびに、色んな人たちの顔が思い浮かぶ。だから、自分で書いた曲ではあるけれども、「色んな人と一緒に書いたんじゃないか」みたいな。そういう曲っていうのは人生の中で何回も書けるものじゃないし、やっぱり大事にせなあかん曲やね。ただ、書いてる時に「これムチャクチャええ曲や」、「名曲を書こう」とかっていうことは全然なかったな。だから本当に、胸いっぱいになりながら演ってた時期に書いた、というのが一番大きいんじゃないかな。

●たぶん、ずっと歌い継がれてる民謡も、当時書かれた方は「ずっと残る歌を」なんて意識はなかった。

N:もちろん。いわゆる録音技術なんてものがあらわれたのはつい最近の話で、古い民謡は、口承で少しずつ旋律が変わったりしながら、徐々に洗練されてきてる。その洗練の中で「みんなが歌いやすいもの」に、だんだん変わってきたということやね。

●そういったことも踏まえて、「音楽の力」をどう捉えていますか?

N:2011年の5月から東北の避難所に歌いに行き始めて、その最初の頃、女川で初めて歌った時、オレらは「お富さん」とか「夜霧よ今夜も有難う」といった曲を演って、みんなも手拍子してくれたりして、、

●動きが早かったと思います。

N:今回の場合、3月17日ぐらいには仲間たちがボランティアで現地に入ってて、毎日毎日電話でやりとりをしてた。最初はまず物資支援で、5月に入った段階で「そろそろ『歌』の出番やと思いますよ」って言われて。避難所暮らしも2ヶ月続いてて、些細なことでケンカが起きたり、「みんなイライラしてきてるんですよ」って。それでその、初めて女川で演った時、演奏中に一人、笑いもせずに凝視してるおっちゃんがいて、ずっとただ見てる。オレも歌いながら気になってて、終わって機材を片付けてる時にそのおっちゃんが近づいてきて、握手しながら「ありがとう」って。それで「音楽っていいね」、「音楽っていいね」って2回言った後、俺の手を握ったまま「うわーっ!」って泣き崩れて。オレは男のあんな泣き方を見たことがなくてね。神戸でも経験したことがないような泣き方をされて、その時はオレも絶句して。「おっちゃん、元気でおってや。また来るしな」っていうようなことしか言えなくて。後で聞いたら、60代で、家族も家も船も仕事も、全部なくした人やった。これは神戸の時からずっと感じてたことやねんけども、音楽っていうのは、喜怒哀楽という感情を解放させることができる。特に避難所っていう空間はプライバシーがなくて、いわゆる笑う、泣く、怒る、喜ぶっていう喜怒哀楽の感情を抑え込まざるを得ない状況なんよね。しかも、ここからはオレの空想になるけれども、東北の男が人前で泣くっていうのは、、

●本来の「美徳ではない」かもしれない。

N:演奏に来てたおじいちゃん、おばあちゃんが5、60人はいるど真ん中で号泣し始めたから、みんなびっくりして。泣いてすっきりして次に行く。音楽ってそういう力を持ってる。「俺にやれることは、感情を解き放つ音楽をやることや」って再確認した。

●寄せられる濃厚な感情に押し潰されることはない?

N:オレは基本的に性格がアホやから(笑)、やれてるんやろうな。神戸の時もあった。ちょうど復興住宅になった頃、1999年ぐらいの頃に、夏祭りで演奏してて、「満月の夕」が始まったら、夜やねんけど白いものが舞台上からいっぱい見えるわけ。ハンカチをみんなが取り出し始めるんやね。家族をなくした人がいっぱいいて、みんなが泣き始める。歌ってて、やっぱりその姿を見てたら俺も正直ヤバいねん。歌えなくなってしまう。だから、オレの仕事は歌を歌い切ることやから、見ないようにするしかない。唄に希望を乗せる。オレは基本的には曲間でお客さんを笑わそうとするし、しょうもないギャグもいっぱい言うし、ライブを「笑いの場」にしたいと思ってやってるんやけどね。でもオレは「泣く」とか、あとは、「怒る」、…「怒る」もオレは大事やと思ってて…、有事であれ、人の感情を動かすことができる音楽の力っていうのは本当にすごいと思うよ。


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