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独自の映像を創り出すSix Stair


Interview by Yosuke“CB”Ishii Photo by Arto Saari

今や多くのスケート・ビデオ・カンパニーが存在するが、ANTI HEROなどでおなじみのSix Stairが世界をリードしてきたのがフィルムを使った独特の作品。そして、彼ら2人のスタンスはいつだってストリート。今回のインタヴューは彼らの映画「Warm Blood」の制作費のためにHeshdawgzがコラボしたTシャツ発売記念でもある。

80年代に東海岸の別々の街でスケートをしていた2人BuddyとRickは、憧れの西海岸とプール・スケーティングを渇望し、それぞれスケート・トリップを繰り返していた。そこで学んできた情報やD.I.Y.スピリットを生かして、ローカルでお手製のスケートセクションを作り、自分たちの仲間とD.I.Y.のパンクショウやスケートコンテストを実現。そのバックボーンが現在のスケートフィルムを作ることに繋がったという。クリエイティブなアーティスト、ミュージシャン、スケーターなど、自分たちが愛してやまないことを作り続けている人たちに惹かれていた二人は一緒にフィルムを作ることになりレッチリやパール・ジャムとも仕事をしている。

●2人は最初どの様に出会いましたか?

Buddy Nichols(以下、B) :90年の話なんだけど当時のスケーターが行きたい国内のスポットといえば5つくらいしかなかった。そのひとつがJeff Phillips Skateparkで偶然僕はオレゴンから、Rickはペンシルベニアからのスケート・トリップで最初に出会ったけど連絡先を交換してないからしばらく再会することはなかった。お互いスケート・トリップを繰り返す生活をしていて、96年にニューヨークのランプでRickが滑っているのを見つけてから一緒にスケートをするようになったんだ。お互いにシューティングなどの小さなプロジェクトをやってたけど、1人でやり遂げるには大変だと思える大きなアイデアが浮かんで、一緒に作品を作ろうということになったんだ。そのアイディアはフィルムで撮るということで『Fruit Of The Vine』ができたんだ。僕たちが2人で撮る大きなきっかけは、せっかくトリップに出たらスケートをしたかったってこと。2人なら交代しながら1人がスケートセッションに加わってもう1人が撮影すればいい。僕らのトリップではスケートも撮影も同じくらいのモチベーションなんだ。だから2人というのは理に適っていたんだ。それを何年も続けて来たんだ。

Rick Charnoski(以下、R) :だからスケートだけをして撮影しないというのは僕らにとってはストレスでもあるんだ。僕たちは常に滑った環境のストーリーを伝えたい。スケートだけをしていたらそこに存在していたグラフィティや屋根の上からのプールの景色や、誰かが作っていたモノなどを見落としてしまう。僕らはトリップで目にする人や環境を収めておいて行った先々の背景も伝えたい。僕らが『Fruit Of The Vine』を作り始めた頃はスケートが下り坂の時期だった。今ならどこでもスケートの映像や歴史を簡単に見ることができる。だけど、当時の僕らは心底夢中になっているスケートへの本当の愛を見せたくて、意識的に“これこそスケーターだ”と伝えようとして『Fruit Of The Vine』を完成させ、また同じ場所へトリップに出かけてスケーターに作品を見せてまわった。ストーリーを共有したんだ。それを見たキッズが感激してくれた。それが初期の僕らの一番の勲章だった。

●ではもともと『Fruit Of The Vine』は販売しようと思ってなかったの?

B:売るつもりはなかった。まずフィルム・カメラを使えるようになりたかったね。ただストーリーを伝えたかった。さらにプールを沢山滑りたかった。僕ら2人はサザンカリフォルニアで育ったわけじゃないからバックヤード・プールを滑る経験があまりなかったからフィルムに撮りたかったことが一番で、販売は二の次だった。僕たちはお金を貯めてなんとかやりくりしたし、クレジットカードも使いまくったね。とりあえずVHSで500本売れたらちょっと格好が付くかもね、なんて考えて他人の反応をみたんだ。それが最終的にはVHSの後にDVDも再リリースしたから合計で30,000本以上が売れることになった。

●それは凄い!僕も買いました。

B:僕らは行く先々で見せて販売したんだ。そうやって家に戻ると今度はスケートショップからオーダーが入るようになった。なぜなら99年当時はプールだけにフォーカスした作品は他になかった。プールに興味があったアメリカ国内のスケーター全員が反応したんだ(笑)。

R:そうなんだよ。『Dogtown and Z-Boys(2001年)』だってまだ公開される前の話だからね。プールを誰も気にしていなかったわけじゃないけど、ディープに見たことがなかったんだ。だからあの作品は面白かったんだよ。スケーターじゃない奴もそこら辺の女も色々な人があの作品を見に来たんだ。だから「あの作品をお父さんが大好きなんだ」とか「お母さんと一緒に見たんだ」とか色々耳にしたよ。SalbaやLance Mountainも見に来てくれて頷きながら見ていたんだ。それは全く予想していなかった。あの中にTony AlvaのパートがあるんだけどそれをLAで見せてた時にはあのStacy Peraltaも来て、僕らに色々聞いてきたんだよ。僕らの思いついた小さなことから本当に火がついたんだ。

B:それと99年の時はもうあと2年もすればプール・スケーティングはなくなるだろうと思っていたんだ。おそらく僕たちがプールに興味を持った最後の2人だと思ってたんだ(笑)。 なぜなら当時は誰も興味がなかったからね。シューズはバッシュみたいに大きな時代で、Geoff RowleyやArto Saariが全盛期だったから過去のスケーターには興味を持っていなかった。いまプールを滑ってる同年代から上のスケーターはあと数年でスケートをやめちゃうだろうと思ってたんだ。ひょっとしたらSalbaもやめちゃうかなとかね。今でこそプール・スケーティングはメジャーになったからそんなこと言ったらクレイジーだけどね。数ヶ月前にRaven Tershyのママとイベントで会ったら、Ravenは『Fruit Of The Vine』と『Northwest』の2本を見て育ったんだって言ってた。プール・スケーティングの作品を作ったことで、プール・スケーティングの火が消えなかったのならクールなことだよ。お金よりも売れたということよりも何よりもだ。それは僕らの予想よりも遥かに大きかった。スケートに貢献できたことが嬉しいよ。

●なぜプール・スケーティングのない環境で育ったのにそんなにプールに興味があったのですか?

R:イーストコーストで育つとプールを滑れるのは1度か2度なんだ。僕にとっては究極のスケート・スポットなんだ。

B:当時僕たちがスケートした全ての物はバックヤード・プールにあるものと繋がっていたんだ。ランプを作ってもプールと似たようなRであり、カーブをグラインドするにしてもプールでグラインドをしているようにグラインドをしていた。なぜなら当時のThrasherはプール・スケーティングが究極だと発信していた。スケートボードは空のプールを滑るためだという風に育った。だからみんながやりたかった。他のスケーティングは全てプールの代わりで、全てはプールで滑るための準備だった。例えば4年バートランプ(3m超のハープパイプ)を滑っていたとしても、それはプールを滑るためでプールを滑らなきゃダメだったんだよ。その為には州を3つ跨いでも出かけた。それはThrasherでMOFOが書いていた記事かもしれないし分らないけど、いつもクールだと思う写真にはプールが写っていたんだ。

R:それに不法侵入だし、良い状態のプールを探すのはサーフィンの波を探すよりも難しかった。超レアだった。どこからか情報を貰い、知らない人のバックヤードに侵入してそこでの楽しみを追求するまでの全てのことが魅力的だった。サザンカリフォルニアのプールは、たぶん50年〜60年代に作られたもので、当時はそこで裕福な人たちがパーティをしていた筈だけど、今はゴミの穴になったプールに何人ものスケーターが入り込んでビールを飲みながら熱く滑ってるわけだよ。最高だろ。それがスケートなんだ。

●ははは、日本にはないカルチャーですね。『Fruit Of The Vine』をなぜSuper8で撮影したのですか?

B:僕がSuper8で連想したのは1960年代のホームビデオなんだ。60年代からあるバックヤード・プールを撮影するなら敢えて同じ手段で撮るのが良いと思った。当時Super8ももう廃れていたし、よく考えてから撮影しなきゃいけなかった。

R:フィルムは高いし、1本のフィルムで撮影できる時間も短いから意識して撮影しなきゃいけなかった。撮影に制約があったからそこにきちんとした意味がないとだめだからね。撮影して見てみると、もうそれだけでショートフィルムのようにも感じられたし、編集する必要がないかもって思う時もあった。とても職人的ともいうかな。それにSuper8で撮るよと言うと、スケーターもいつも以上に頑張るしベストショットが撮れるようにお互いに努力するからそこも良かったね。

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