• OVERHEAT MUSIC

石田昌隆「JAMAICA 1982」


Interview & Photo by Shizuo “EC” Ishii

石田昌隆が、初写真集を出版。それも36年も前に撮ったジャマイカの貴重な写真の数々。物騒なキングストンで、写真のような出で立ちで撮影したそうだ。カメラにつけたデカいストロボ、それにレフ用のアンブレラを装着という狙われてもおかしくないスタイル。では、その<石田昌隆こだわり人生>について。

石田昌隆(以下、I):鉄道写真をずっと撮っていて、蒸気機関車が1975年に無くなっちゃってから、次に何を撮ろうかと考えた時に一番参考になったのが、吉田ルイ子さんの「ハーレムの熱い日々」という本と、ブルース・デビッドソンの「East 100th Street」っていう写真集ですね。「East 100th Street」っていうのは、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレムで一軒一軒ドアをノックして「写真を撮らせてくれ」って、黒人とかヒスパニックの写真を撮ったやつ。吉田ルイ子さんは、1962年からハーレムに実際に住んで、近所の人や子供から、当時のコルトレーンなど有名なミュージシャンまでたくさん撮ってる。マルコム・Xのお葬式の時の参列者を撮った有名な写真があって、それまでは黒人達がちょっとヘラヘラしている雰囲気だったらしいんだけど、葬式の時に近所の人が凄くキリッとした表情になった。その意識の変わり目、60年代のあの公民権運動の時代のハーレムの黒人達の一番ビビットな姿を捉えていて、僕も“こういう写真を撮りたいな”と強く思ったんですね。
 そんな頃、1979年のボブ・マーリーの来日公演と、ジミー・クリフの来日公演に行ったり、映画の「ハーダー・ゼイ・カム」を観て、「レゲエ・ブラッドライン」(Peter Simon著)を穴の空く程見ました。僕がジャマイカに行ったのは82年で、その時代になるともう60年代的なニューヨークは無いから「今ニューヨークの写真を撮っても全然手遅れだ」と思ったんですね。でも本当はヒップホップが出て来たりとか、その時代のニューヨークの面白さはあったはずだけど気づくことなく「今現在ワクワクする場所は、ジャマイカしかないだろう」と思ったわけです。映画「ロッカーズ」を観たのがジャマイカに行く前だったか後だったかは定かでは無いんだけど、石井さんが「ロッカーズ」(映画)を初めて上映したのは、何年ですか。

●1980年の夏でした。

I:この写真集の中に、ビッグ・ユースがダウンタウンのミュージシャンの溜まり場みたいなチャンセリー・レーンにいる写真があります。黄緑色のムスタングで来たんです。「ロッカーズ」にまったく同じシーンがあって驚きました。「ロッカーズ」の撮影は78年ですよね。

●77年に撮影が始まって編集が終わったのが78年と聞いてます。

I:映画に、ジャック・ルビーのサウンド・システムのシーンが出てくる。行ってから分かったことだけど、82年というのはイエローマンがガーッと出て来た時で、彼がサウンド・システムでラバダブ・スタイルのライヴをやるシーンに遭遇出来たのが、もの凄くラッキーなことだった。やっぱり「ロッカーズ」の頃のジャック・ルビーの感じよりも一段とラバダブ・スタイルが独自に進化していて、そういう風景は「ロッカーズ」にもまだ出て無かったし、「レゲエ・ブラッドライン」にも取り上げられて無かった。82年くらいにガッときた文化だったわけですよね。この前のRiddim(345号)にジョジー・ウェールズのインタヴューが出てたけど、やっぱり80年代前半のほんの数年間ですよね。まだ、ファッション的にもヒップホップっぽいファッションは全く入ってきてないし。ヘンリー“ジョンジョ”ローズがプロデュースしてルーツ・ラディックスが演奏して、サイエンティストがミックスするワンドロップっていうのが、一番格好良かった時代。
 次にジャマイカに行ったのが9年後の91年ですけど、その間にランキン(・タクシー)さんが83年から行き始めて、80年代半ばには佐川(修)さんとかがよく通うようになって。彼らが書いた記事を読むと、凄い勢いでどんどん変わっていて、91年の2回目の時はまるで状況が変わっていた。82年のジャマイカは、今思えば「ロッカーズ」的な雰囲気の最後の時代だったわけですね。

●ジャック・ルビーのサウンド・システムは、キングストンじゃないからちょっと性格が違うかもですね。ジャック・ルビーって俺も1回だけ行ったけど、オーチ(オーチョリオス)の方ですよね。あの映画を撮ったのは一番危険な時代だったからキングストンで夜のサウンド・システムは照明も無いし大変だし、危険だからって。イエローマンはバリバリにキングストン。

I:U・ロイとかも70 年代の動画がいくつか残ってるけど、みんなライヴ的な感じですよね。82年には、イエローマンがナンバーワンで、U・ロイのステレオグラフ、ジョニー・リンゴってやつが中心だったジェミナイ、ブリガディア・ジェリーのジャー・ラブが四大サウンド・システムで、僕は全部行ったんですけど、エイセズがやっぱり一番ワーッってなっていて、エイセズの感じとかジェミナイの感じっていうのは、70年代には無かったんでしょうね、多分ね。
 ジャマイカに行った事がある人は皆、自称ガイドみたいなやつと知り合って、その誰かの生活圏にしか行けないじゃないですか。だから、いかに面白い誰かと知り合うかで、見る世界が決定しちゃうわけで、僕は面白いやつにうまく当たったなというのがある。

●そうですよね。写真を見ると確かに一般の人たちも、アーティストも、ましてや82年のタフ・ゴングは入るのも大変だったはずだからそこに行けたりとか。僕は84年が初キングストンで、ちゃんとアポ取ってリタ(マーリー)に会いにタフ・ゴングに行ったんですけどね。

I:僕が行った82年は、菊地昇さんと高橋健太郎さんも行った年でした。ロサンゼルスのジェフとアンっていうジャーナリストによる81年のレゲエ・サンスプラッシュの記事が健太郎さんの翻訳でPlayer誌に載って、あと81年のサンスプラッシュの2枚組ライヴ盤が出た。ウッドストックの時代はとっくに終わっていて、グラストンバリーの存在はほぼ知られてなく、フジロックはまだ始まってもいない。そんな時代に4日間で数十組のライヴが夜通し行なわれる「レゲエ・サンスプラッシュっていうのがあるらしい」と判ったわけで、これは行きたいと思わずにいられなかった。

●じゃあサンスプラッシュの時を目がけて行ったんですね。

I:もちろん。その当時はまだ僕は実績も無いからサンスプラッシュ直前に行っても撮るのは難しいだろうなと思い、1ヶ月以上前にジャマイカ入りすれば、色々事情が分かるだろうと計算していたんですね。だから色んなやつと知り会えて、最終的にはサンスプラッシュもプレスパスを取って、ステージ脇から写真を撮れたんだけど。菊地さんと健太郎さんは割と直前に来てもプレスパスをちゃんと取れてたけど、僕はまだ全然素人だったから。サンスプラッシュは、バーニング・スピアとかトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズとか、錚々たるミュージシャンが沢山出て、ハイライトではあったけど、アメリカ人の観光客が来てたりとか、あのキングストンの本当にディープな感じより案外普通だなという感じでした。
 サンスプラッシュにはイエローマンも出ていて、そのライヴだけで1枚のアルバムにもなってるんだけど、その前にエイセズで凄くディープで格好良いラバダブ・スタイルを見ていたから、サンスプラッシュのイエローマンはアメリカ人観光客向けにやってるなと思っちゃったくらいで、やっぱりキングストンは凄いなと思った。
 (モンティゴ・ベイの)サンスプラッシュにはミニバンを乗り継いで行って、今で言うエアビー的なシステムが当時のジャマイカにはもうなんとなく出来ていて、知り合いの知り合いの、そのまた知り合いぐらいの一般の家に安く泊っていたんです。当時は凄く体力があったから、昼過ぎに起きて、郊外のローズ・ホール・インター・コンチネンタルという所にミュージシャン達が泊っているからミニバンでバッと行って取材をして、夕方になったらジャレット・パークに戻ってサンスプラッシュのライヴを明け方まで撮って、午前中だけ寝るみたいな4日間を過ごした。それで終わった8月8日の朝、またミニバンでジャマイカの北海岸沿いにオーチョリオスの先迄戻った辺りから、島を横断する途中のブルー・マウンテンの辺りで相棒と降りて、そこで夜通しナイヤビンギをやっている所に行ったんです。そこは今思い出しても「あんな場所が世の中にあったのか」みたいな感じ。写真は夕方のまだ明るい時だけ撮って良いと言われて、夜になってバーッと佳境に入っていくと、儀式だから写真は駄目ということなってほんのちょっとの時間しか撮れなかったけど、それでもその時撮った写真をこれにも載せてるけど、その後日本人が凄く沢山行っているのにこういう写真は余り見ないから、なかなか遭遇出来ないものなのかなと後になって思うんだけど、あれはやっぱり今でも本当に夢の様で。飯を食わせて貰ったり、結局朝迄泊っちゃったりしたわけ。朝出る時、相棒に「20ジャマイカ・ドルをドネーションしていけ」と言われたから、言われた通りに払ったら、写真だと一番左の看護婦みたいな格好をしている女の人が持っているマラカスをくれたんですよ。そのマラカスが36年経った今でも家にあって、本当に行った証拠みたいな凄く不思議な気分。

▼▼次のページへ▼▼


ページ: 1 2