• OVERHEAT MUSIC

屋敷豪太(GOTA YASHIKI)


Interview by Shizuo”EC”Ishii Photo by up_tyo

Mute Beatのドラマーから Plasticsを解散した中西俊夫と佐藤チカが結成したMelonに参加し、その後イギリスに渡った屋敷豪太(GOTA)は、日本人として前人未到の経験をし、今また日本の京都に居を移して活動している。現在の屋敷豪太の心境とは。

●では、昔話から。 「Mute Beatを脱けてイギリスに行きたい」って言われて夜遅くまで渋谷PARCO近くの店で話したのを覚えてる? 「じゃあ、しょうがない、行ってきて」みたいになって。

GOTA(以下、G):その時は「1年、2年行きたい」みたいな話しで、最初はMelonで半年位行ってた。帰って来て1年位経った86年かな?その頃、Muteの初めての12インチ・シングルがファミマか何かのCMでね。

●「Coffia」「Summer Time~」「Echo’s Song」の3曲が入ってる12インチで「Coffia」がCMで使われたのが86年。3曲レコーディングして抜けるのはマズいなと。でもオーガスタス・パブロが来日して世田谷代田のスタジオで「Still Echo」のリミックスをやった時は帰って来てたんだよね。あれが87年だと思う。その年は青山スパイラルの3階のホールで、“Gladdy meets MUTE BEAT”をやって、その時は楽屋に来てたからロンドンじゃないよね。

G:そう、87年は日本にいて、あの時のグラディは、オーバーヒートで初めてのCDだったじゃないですか。

●そうだったかな?『Don’t Look Back』ってレコードは出したけど、CDも出したかな?

G:あれは、愛聴盤でしたね、よく聴きました。

●今年の7月、渋谷クアトロ30周年記念でDUBFORCEが出演したけど、そのクアトロの88年のオープニング・イベントが“Roland Alphonso meets Mute Beat”で、ベースの松永(孝義)くんがちょっと引っぱられて、不在って話しになって・・

G:出演できないかもしれないっていうので、リハスタでベース弾いた事あるもん。

●そう、こだま(和文)君が「GOTAはベースを全部覚えたよ、やっぱ凄いよアイツは」って、だから俺はあの瞬間は2つの問題を抱えていた(笑)。松永君の名誉のためにも言っておくと、実は関係なくて数日で出てきたけど。

G:そうだよね。ローランド・アルフォンソも来日できるかどうかってことになってた。でも2人ともステージに立ってるのを僕は観たんですよ。あれでベーシスト・デビューしてたかもしれないっていうね(笑)。
 それで本格的にイギリスに行きたくなって88年の8月に行ったんですよ。前にMelonで行ってた時はずっとスタジオだったから、知っている人も殆どいなかった。でもボムザベースのティム・シムノンと、あとワイルド・バンチのネリー・フーパーは、たまに日本に来てDJをやっていたから知ってて。

●六本木インクスティックとかで俺も観に行ったことがあると思う。

G:そう、ワイルド・バンチで東京に来てたかもしれない。僕がメロンでロンドンに行ってる時に彼らに色々とクラブに連れてってもらってその2人だけはよく知っていた。その2人に「何かやりたいと思って来たんだよね」みたいな凄くアバウトな話をしたら、メロンのレコーディングの時に、僕が機械を色々操れるのを知っていて、ネリーが「今Soul Ⅱ Soulのレコーディングをしてるから手伝ってくれない?」って話しになって。「何それ、Soul Ⅱ Soulって毎週水曜日のクラブイベントの名前だよね?」って言ったら、「そうだけど、その雰囲気のチームでレコーディングしてるから、手伝ってよ」みたいな話しになって、割とSoul Ⅱ Soulの仕事ばっかりしていたんですよ。

●Soul Ⅱ Soulって言ったらジャジー・Bだと思うけど。でも作っていたのはネリーなわけ?

G:基本ネリーがプロデューサーとして色んな事を全部、スタジオのブッキングからミュージシャンの手配から全部やって、ジャジーはアーティストです。Soul Ⅱ Soulはジャジーで、それをプロデュースしているのがネリー・フーパーで、僕はドラムも叩くけどプログラマーとして彼に雇われた形。

●なるほどね。そうしたら、「Keep On Movin’」「Back To Life」が世界的に大ヒットしちゃった。

G:大ヒットして、その時は何を出してもチャートに入って大体1位になっちゃってね。あの頃はリミックスが流行っていて、だから色んなアーティストのリミックスをやりましたよ。僕ももう良く覚えていないけど、ジギー・マーリーとかも、B.A.D.とか、PILとか、あとB-52′sとか、とにかく凄くたくさん。もう社会現象みたいになっちゃって、日本ではグラウンド・ビートとか言われちゃって、なんでもかんでもどんなアーティストもあのリズムを使うようになったからリミックスも僕らがやってたけど、世間でワーワー言っている時はもう僕の中では古いものだったんですね。そうなってる時に、ネリーのところにアイルランドのシネイド・オコナーっていう・・

●そうだ、彼女もレゲエをやって、ジャマイカも行ったよね?

G:そう、その彼女がネリーとSoul Ⅱ Soulの人達でああいう音を創りたいってオファーがきたらしく、それで「Nothing Compares 2U」っていうのをやったら、それもまた凄くヒットしちゃったじゃないですか。あの頃はネリーの家で基本のプログラミングとかストリングスとかを全部僕がやって、世に出ているやつはピアノ以外を全部僕がやっている感じかな。そんな事をやってるうちに業界で「Gota Yashikiって誰なんだ?みたいな話しになっていて、色んなプロデューサーが目をつけてくれて、その中の1人にスチュワート・レヴィンっていうSimply Redのプロデューサーがいたんだけどね。
 僕はその頃、Soul Ⅱ Soulをやってて、別に僕のバンドでも無いし手伝っているだけだし、こんな話しをここで言ってもしょうがないけど、ジャジーとかもワァーって売れちゃったから、だんだん裸の王様みたいになっちゃって、僕がもう嫌になって半分喧嘩別れみたい。向こうは凄いギャラ貰っているのに、一番仕事しているのは僕なのに「だったらいいよ」って、離れる離れないですごく揉めたことがあったり、そうこうしている内に「GOTAっていうのが、縁の下の力持ちみたいなのをやっているらしい」っていう話しが伝わって、来た話しのひとつがマイケル・ローズのソロアルバムですね。

●ああ、ブラック・ウフルを抜けたマイケル。

G:東京にいる時に、ブラック・ウフルをずっと聴きまくってた大ファンだったから、彼と小さなスタジオでプリプロから曲作りを始めて。レコード会社は、それこそグラウンド・ビートで凄く流行っていたマキシ・プリーストの「Close To You」の二番煎じみたいな曲をやらせたかったんだと思うのね。でも僕的にはもはやそんなの全く無理で、凄くコアな音作りでフェラ・クティにサックス・ソロをやってもらったりとかしたの。「アフリカの代表って言ったらフェラ・クティだろう」って半分冗談で言ったら本当にやってくれる事になって、パリまでレコーディングに行ったり。そんな事をしてたらレコード会社的にも、コマーシャルじゃないのもアリだってことでアルバム全部を僕が作って納品したんだけど、結局彼らは、また違うプロデューサーとかリミキサーを入れて数曲は僕の本意じゃないものになっちゃった。でもフェラ・クティが入っている「Just Do It」という曲は、コルグのキーボードだけで作ったトラックにフェラ・クティが吹いていてマイケル・ローズが歌っている曲は、そのまま使って貰えてて良かったなと、まあそんな事があってアルバムは出たけどそこまではヒットしなかったのかなあ。でも、ジャマイカもそのレコーディングで何回か行ったりしてマイケルとはずっと今も良い友達。
 後は自分のソロ・アルバムをやったり人の手伝いをしているうちにSimply Redのレコーディングに行く事になって・・・。
 あの頃はプログラムっぽい音がもてはやされていて、スラ・ロビのスライもだけど、打ち込んでハイハットだけを生でとか、そんな感じで僕もやっていて、それがその当時の主流だった。そのSimply Redが借りてたスタジオが、ホテルの敷地内にスタジオがあるって言った方が良いのかな。凄く広くてレーガン大統領か誰かが来たみたいな所で、ゴットファーザーの映画に出て来る様な5メールくらいのカーテンが廊下にズラっとあって、ゴルフ場も、サッカー場もあるし、乗馬も出来る。プールも畑もあるみたいな敷地の一部にスタジオがある凄い所でレコーディングが始まって、何日か経つとうちとけてきて、ホテルに帰る前に酔っぱらってジャムセッションになったら「GOTA、ドラム叩けるの?」とかなって、結局『STARS』っていうアルバムの半分くらいは僕が生ドラムを叩いて、半分くらいは打ち込んだんですよ。そうしたらリーダーのミック・ハックネルが、「ここまで一緒にこんなサウンドで作ったら、俺はお前無しではツアーに出たくない。バンドに入ってくれ」って言われて、前のドラムはクビになっちゃって僕が入ってワールド・ツアーをやることになった。それは凄く良い経験だったなと思います。既に売れていたバンドだし、そのアルバムはもっと売れちゃったので、皆“ファースト・クラス・ワールド・ツアー”って言っていて、行った街では絶対に良いホテルだし、移動もリムジンで、「何か俺もロックスターになった気分だな」とか思いながら良い経験をさせてもらった。でも僕的には今思うと凄く売れすぎちゃってね。イギリスのアルバム年間1位ってあるじゃないですか、それが2年連続でそのアルバムが1位だった。それってちょっと考えにくいでしょ?

●う〜ん、考えられないね〜。

G:考えにくいでしょ。今でもギネスに載ってるらしいんだけど、そんな状況で2年間そのアルバム・ツアーをやって、僕の誕生日を2回迎えたの。そうしたら「俺、こんな事をやっていて良いのかな。もっと曲も作りたいし」という気がしてきて。勿論ツアーは楽しいけど「僕が思っているやりたい事とは、ちょっと違う」って言って、そのツアーが終わった時点でミックに「ツアーで良い経験させてもらったけど、もうちょっとできない。レコーディングだったら喜んでやるけど」って言って。それで離れて自分のソロアルバムを作ったり、他の人のプロダクションをやったりだとか。そうしているうちにまたミックともレコーディングをするようになるんだけど。その頃スタジオも作って、なんだかんだやっているうちにまた石井さんから連絡をもらってMOOMINのレコーディングをやったのが2000年に入ったくらい?

●99年の「MY SWEETEST」って曲かな。

G:90年代後半だったね。Simply Redのワールド・ツアーを2年やったのが、90年、91年、92年とかその辺で、93〜94年くらいにソロアルバムを作って、そのまま自分でスタジオ作ってやっているうちに3〜4年経って石井さんにまた会ったって感じ。

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